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2021.06.15

リットーミュージック

セクシー歌謡全盛時代(5)

text by 馬飼野元宏

歌謡史の裏街道的な扱いを受けながらも脈々と生き続けてきたセクシー歌謡の100年をまとめた『にっぽんセクシー歌謡史』が発売された。奥村チヨや山本リンダといったセクシー系歌手のルーツを探り、その進化と変貌のプロセスを検証した大作である。本書の中から「セクシー歌謡全盛時代」の章を5回に分けて丸々公開する。ぜひご一読いただきたい。

浅野ゆう子のセクシー路線

 70年代中盤に入ると、歌謡界の様相はまた一変してくる。歌謡曲というジャンル自体の幾たびかの再構築が行われ、具体的に言えばフォーク或いは自作自演者によるポップスがニューミュージックという新たな用語とともに台頭し始め、歌謡曲の対抗勢力として勢いを見せてくる。同時にいろいろな形で歌謡曲と融合するようにもなり、ひいては歌謡曲の在り方も変革していった。吉田拓郎の歌で数多く出てくる「です・ます」調の歌詞が都はるみの演歌「北の宿から」に取り入れられたり、ナベプロ系アイドルと、ニューミュージック的な活動の中間点にいた太田裕美が、はっぴいえんどのドラマー出身の作詞家・松本隆と歌謡界の大御所作家・筒美京平のコンビによって「木綿のハンカチーフ」を大ヒットさせたり、といった現象はすべて75年末から76年にかけてのことである。山口百恵が千家和也=都倉俊一の手を離れ阿木燿子=宇崎竜童夫妻に楽曲を委ねるのもこの時期。歌謡曲はポップスとして進化していくが、同時に生来持ち合わせていたいかがわしさやきわどさといったものが次第にデオドラントされていくようになる。

 この時期に歌謡曲的ないかがわしさ、きわどさを持ち合わせつつ登場してきたのは、言うまでもなくピンク・レディー。詳しくは第10章「ガールグループ」の項に譲るが、76年8月のデビュー曲「ペッパー警部」からの1年間、4作目「渚のシンドバッド」までは間違いなくセクシー歌謡の系譜にあった。衣装やボディ・アクションはもちろん、阿久悠=都倉俊一コンビの手による楽曲は、その源流を山本リンダに辿るのは容易である。

 また、この70年代後半には、清純派からセクシー路線に転向するソロ・アイドルたちが、このジャンルに参入してくるようになった。
 いずれも成功例とは言い難いが、一応の成績を残したのがまず浅野ゆう子。浅野は1960年兵庫県神戸市生まれで、74年5月25日にRCAから「とびだせ初恋」でアイドル歌手としてデビューしている。当時まだ14歳だった。所属事務所は研音。
 すらりとした長い脚が売りのアイドルで、同年のレコード大賞新人賞も獲得しているが、その後はパッとせず、76年にディスコ歌謡「セクシー・バス・ストップ」のヒットで、この曲が歌手時代の代表作となった。

 「セクシー・バス・ストップ」というタイトルから想像するのとは異なり、これを歌っていた時期の浅野はまだアイドル的な存在だったが、次第にグラビア人気が高まり、そういったニーズと化粧品のCMソングという露出の多さでヒットに結び付けたのが、79年4月発売の「サマーチャンピオン」だった。何しろジャケットからして海に立つ浅野の、黒のビキニという刺激的なもの。元はセルジオ・メンデスのAORディスコに伊集院静こと伊達歩が詞を付けたもので、馬飼野康二が16ビートを刻むギターとサックスをベースにアレンジを施している。歌う浅野は、もともと歌は普通に歌える歌手だったが、ここでは曲調に合わせやや抑えめの歌唱で、それがかえって夏のむせかえるようなお色気を強調し、さらには歌詞の内容も山本リンダほどではないが、女王様キャラで迫ってくる。

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 この曲のヒットを受け、次の「ストップ・ザ・カンバセーション」では、小林和子の作詞に、筒美京平が作曲。井上鑑に編曲をまかせた同曲は、いきなり冒頭から、シーツの陰から薄目をあけて彼氏の動きを見つめる描写ではじまり、明確にアダルト方向に舵を切った。ちなみにこの時、まだ19歳である。
 浅野ゆう子というと、バブル期のトレンディドラマで浅野温子とともに活躍した「W浅野」時代の印象が強いが、妙に本音を見せない印象がある分、ワケアリ感が漂うタレントでもあった。そのあたりがセクシー路線と合致していたのが、70年代後半から80年代前半の、グラビア・クイーン時代と言える。

枝分かれするセクシー歌謡

 浅野ゆう子と同傾向の道を歩んだのが、渡辺プロの五十嵐夕紀。彼女も浅野と同じ60年生まれながらデビューは3年遅く、ナベプロ系のオーディション番組『あなたならOK!』に合格し、77年に16歳で「6年たったら」で歌手デビューを飾った。このデビュー曲は松任谷由実の作詞、筒美京平の作曲という豪華な布陣で、ナベプロの期待も大きかったが、不発に終わる。4作目の松本隆=吉田拓郎コンビ「えとらんぜ」までは清純派アイドルを貫いたが、78年10月20日発売の5作目「ワル!(泣くのはおよし)」で突然、不良カラーへと変貌。男言葉で歌われるヤンキー歌謡の一種だが、イントロでマイクコードを使って衣装のスカートをたくしあげる振り付けが記憶される。

 ここで一気に振り切れたのか、1曲おいて7作目はなぜかヘビメタ・バンドのライオット「幻の叫び」をカヴァーした「バイ・バイ・ボーイ」と迷走。前年のアン・ルイス「女はそれを我慢できない」のヒットで見いだされた、女性歌謡ロックの鉱脈に同じナベプロの後輩が追随した形となった。そして、通算8作目となる「ホットリップス」では遂にジャケが水着仕様となり、来生えつこ=亀井登志夫コンビによる楽曲も指先ひとひねりで燃えるとか、フェロモン全開のノリノリなセクシー歌謡を披露した。B面の岡本一生作曲による(作詞は来生)「熱くホライゾン」もエロティック・ボッサ歌謡といった趣。ちょっと痛々しさを感じさせるのは清純派アイドルとして売り出されたがゆえのことだろう。

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 だが、歌手としてはいずれも不発に終わり、遂に84年には山城新伍が監督した日活ロマンポルノ『双子座の女』に主演し、完全にシフト・チェンジを果たした。その翌年、キャリアの最後に出たシングルは85年、ビクターに移籍しての「浮気ならいいわ」である。
 この「清純派ではじまり、最終地点が日活ロマンポルノ」という流れは80年代に多く見られた傾向で、天地真理、畑中葉子、トライアングルの小森みちこなどと同じだが、五十嵐夕紀の場合、上述のような経緯もあり清純派がいきなり大変貌というわけでもないのだ。

 76年デビューの芦川よしみも、本来的には小柳ルミ子に始まるワーナー叙情派歌謡の系譜にある人だが、どこかわいせつさが滲み出た、作り物感の強さという点では70年デビューの安倍律子の後継と言える。なぜか水着ジャケの「すっぱい夏」にその思わせぶりなエロティシズムが表出しているが、その後デュエットの女王となることも含め、安倍の後継と呼べるかもしれない。

 関西出身の有吉ジュンも76年「涙があればいい」のデビュー当初は、ややヤンキー系のアイドル歌手だったが、もともとグラビア需要が高かったこともあり、甲斐よしひろ提供の「ランデブー」を経て3作目「あげるものはなにもない」(橋本淳=都倉俊一=馬飼野俊一)でやさぐれ系セクシー方面に移行、78年の「誘惑のスロットマシン」では、黒いビキニ姿のジャケットでセクシーなお姉さんに変貌したが、ここで打ち止めとなった。

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 78年デビュー、ミノルフォンの中野知子も、「恋はBan Bon」でのデビュー時点では正統派アイドルであったが、2作目「ブラックホール」(島武実=穂口雄右)で早くも怪しげになってきて、4作目「裏を返せば」では白ビキニで海に浸かる姿に。その後セミヌード、オールヌードを披露する。

 欧陽菲菲、アグネス・チャンの成功以降の、アジア圏からの女性歌手も変わらず登場してきているが、その中でも1~2割がお色気系であったのは、73~74年のブーム期とそう変わらない。77年にはやや出遅れた夏木マリ・フォロワー、五代マリが「誘惑」でデビュー。73年のミス・コリア在日同胞代表のキム・メジャ(金梅子)その人で、モノクロジャケのドアップ顔のインパクトも大きいが、独特の発声で「たんまらなっく、すっきぃ~!」と歌う巻き舌唱法で、ちょっと八代亜紀を思わせる演歌っぽさがあるのは、韓国系歌手に特有のものか。

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 やはり77年、フィリピン出身のディディー「抱いて抱いて」もなかなかに強烈。本国ではディディット・ライエスの名で本格派歌手だったのが、東京音楽祭に出場し、この曲で日本デビュー。カタコト日本語でエロ歌謡を喘いでいる様はすさまじい。

 加藤茶の「タブー」ほどの爆発力はないものの、「コミック・エロ」の系譜もまだこの時期は生きており、75年には笑福亭鶴光が「うぐいすだにミュージックホール」をヒットさせ、ストリップの世界に再び脚光が当たった。笑福亭鶴光は、70年代の中学生たちにエロの愉快さを教え込んだ人物であることは、土曜深夜の『鶴光のオールナイト・ニッポン』をどれだけの中学生男子が聴いていたかを考えればわかる。この曲のヒットで白川みどりと及川洋による「ミュージック京都・女体」なるアンサーソングまで作られるほどの人気となった。75~76年はナンセンス・ソングの何度目かのブーム期でもあり、その一環として語られることも多い。

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 また、77年にまさかのお色気路線で攻めてきたのが、あの由紀さおり。同年にリリースした「ふらりふられて」「う・ふ・ふ」の2曲は、作詞:島武実、作曲:宇崎竜童のコンビで、正統派歌手のイメージが強かった由紀さおりが、意外なほど色っぽい歌いまわしで新生面を切り開いた。特に後者は「男って可愛いわね」といった内容のもの。由紀さおりは70年にもフェロモン濃度の高い「好きよ」を発表しており、彼女のファンは正統派のヴォーカルに隠された色っぽい魅力を感じ取っていただろうが、それが前面に出てきたのがこの年の宇崎作品だった。その後も由紀さおりは79年の「愛したもうことなかれ」(荒木とよひさ=森岡賢一郎)など、そっち方面の楽曲を時折リリースしているが、清潔感を失わないところがこの人ならではか。

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 かように、70年代後半に入ると、セクシー歌謡の人気も終息に向かいながらも、いくつかの系統に分かれていく。

 1 アイドル歌手の、グラビア進出によるセクシー歌謡への移行
 2 お色気・ヌードに関しての専門性の高い女性たち(ポルノ女優など)の歌手活動
 3 グループ形態によるセクシー歌謡

といったところであろうか。そして、80年代には2と3の要素が強まっていき、むしろ正統派アイドルからセクシー歌謡への転向は減っていく。レコード会社や事務所のプロデュースが上手くなったことも大きいのだろうが、裏を返せば70年代はまだまだ、正統派・清純派でブレイクしなければお色気方面へ、という(安直な)道が歌謡界にも敷かれていたとも言える。ただし、70年代前半に成功したセクシー歌手たちが切り開いた道は、「尽くす」「すがる」女性像からの脱却であり、何度かの揺り戻しが起きつつも、テレビ時代にふさわしくビジュアル面の充実度を伴って、自身の美貌を正面切って見せていく、新たなセクシー表現を手に入れた時代でもあった。それは雑誌グラビアでの露出という形で青少年にまで届くようになり、大人の男女の淫靡な夜の世界からの脱却でもあったが、同時にエロが即物的に消費されていく時代の始まりでもあった。

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