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2019.03.08

リットーミュージック

富裕層、若者層、ヤンキー層から形成される「湘南」のイメージ【第一回】

text by リットーミュージック編集部

"「湘南」はイメージである"という大胆な仮説を打ち出した書籍『「湘南」の誕生 音楽とポップ・カルチャーが果たした役割』が発売中だ。「湘南」といえば、海、サーフィン、江ノ島、マリーナ、高級住宅地、別荘地......ざっとそんなイメージが浮かんでくるが、それらが実は音楽や文学、映画などのポップ・カルチャーが作ったものだとしたら。昨今はコンテンツツーリズムの聖地としても人気の「湘南」だが、その道の大家である著者、増淵敏之氏はそう述べる。「湘南」のイメージ形成のプロセスを解き明かした本書の中身を5回に分けて紹介する。

第一回

命名の由来(「湘南」の語源)

 最初に「湘南」の語源について考えてみよう。2005(平成17)年の藤沢市教育委員会発行の『湘南の誕生』によると、湘南の由来には、大きく分けて、相模国の南の地域、を意味する相南という言葉に「さんずい」がついて湘南になったという説と、中国湖南省の洞庭湘に注ぐ川に「湘水(しょうすい)」があり、その南の風光明媚な地域を指す「湘南」にちなんだという説が紹介されている。

 また洞庭湘に注ぐ瀟水(しょうすい)と湖水(こすい)の2つの川が合流するあたりの絶景を「瀟潮八景」といい、金沢八景などの名勝の原型であるが、江戸初期の沢庵和尚が江ノ島の風景を「瀟湘」にたとえたと伝えられている。いわば文人趣味の世界に現れた名称であり、雅号としての使用例は、中世の禅僧の湘南淙.や明治の漢詩人大久保湘南などにも見られるが、これが地域名として使用され、箱根を函谷関に比定するのと同様に、「東洋のマイアミ」ならぬ「日本の湘南」として相模湾沿岸を呼んだというのであると記載されている。   

 中国の「瀟湘湖南」地方は禅仏教が発展した地方であることから、禅に関連した古典や事象に「湘南」の文字を見ることができ、禅僧が日本にその言葉を持ち込んだともいわれている。また大磯の鴫立庵(しぎたつあん)には「著盡湘南清絶地」と刻んだ石碑があり、この庵は俳諧道場として知られているが、1664(寛文4)年に小田原の崇雪(そうせつ)が草庵を結んだことを起源としている。ここが「湘南発祥」の地といわれることもある。この石碑は複製品が作られて鴫立庵の庭にあり、本物は大磯町が管理している。

 崇雪は、『寛文六年大磯村検地帳』に、屋敷地と畑地の一反六歩を名請すると記載されていることから、この時期、大磯宿に住み、実在の人物であったことがわかっている。また、崇雪には小田原町宿老として伝家の丸薬である透頂香を売る小田原外郎こと宇野家の出であるとの伝聞もある。

 明治以降になって湘南の文字が歴史に登場するのは1881(明治14)年に設立された「湘南社」だ。この「湘南社」は、大磯を本拠地にして、曽屋(秦野市)、南金目(平塚市)、伊勢原にそれぞれ講学所を開設し、民権思想の啓発を目的に活動した自由民権運動のための政治結社で、活動範囲は淘綾(ゆるぎ)・大住の両郡が中心だった。

 さらに、1889(明治22)年、津久井郡に湘南村(現・城山町)が誕生する。この湘南村は小倉村と葉山島村が合併して生まれた村だが、その由来は、『角川日本地名大辞典』によれば「相模川を文人が湘江と呼んでいることにちなみ、湘江の南側の村という」ことである。当地は、山と川が織りなす景観に富んだ地域で、「湘南」の地名は現在、湘南小学校として残っている。

 このように、江戸期に大磯を発祥の地として命名された湘南は、明治になって、政治結社名や合併村名に用いられる。この他、湘南を冠したものには、湘南大磯病院(1893[明治26]年/大磯町)をはじめ設立順に、湘南馬車鉄道(1905[明治38]年/二宮町)、湘南煙草合名会社(1907[明治40]年/小田原市)、湘南牛乳株式会社(1908[明治41]年/二宮町)、湘南度量衡器製作株式会社(1911[明治44]年/小田原市)、湘南介立社(1912[明治45]年/小田原市)などがあり、すべて相模川以西の地域に集中していた。

 また当時は相模川に接した東側の寒川及び茅ヶ崎の一部地域を特に「湘東」と呼んだ。この「湘東」は、湘江に見立てた相模川の東の意味だった。この「湘東」の文字を用いて、1883(明治16)年、寒川・茅ヶ崎地域の資産家を出資者とする貸金会社「湘東社」が設立される。その後、この「湘東」は1925(大正14)年設立の「高座郡茅ヶ崎町湘東耕地整理組合」に使用され、現在は「湘東橋」という橋名に残っている。

 つまり明治期、相模川以西地域が「湘南」であって、相模川以東地域は「湘東」だった。従って明治期の湘南の意味する言葉のイメージは海よりも山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域に限られていたと考えられる。『広辞苑』(第五版)では「葉山・逗子・鎌倉・茅ヶ崎・大礒ママなど」とし、平凡社『世界大百科辞典』(第二版)では「鎌倉、藤沢、茅ヶ崎、平塚、大礒ママ、二宮、小田原の5都市2町の相模湾岸を指し、ほかに三浦半島北部の逗子市、葉山町を含めることも多い」とされているが、行政や他の公的機関などの定義もそれぞれで、主体の認識、目的によっても柔軟な対応が取られている。

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