『テクノ/ロジカル/音楽論』出版記念イベントより
佐々木敦の生解説!
 
以下の文書は、『テクノ/ロジカル/音楽論』の著者である佐々木敦氏が2006年1月29日に学芸大学trayにて行ったトークイベントより、第1部「生解説」の内容を書き起こしたものです。本書のサブテキストとしてお楽しみください。
 
佐々木敦 『テクノ/ロジカル/音楽論』出版記念トークイベントより

 えーと、こんにちは、佐々木です。今日は、日曜日のうららかな良い天気の日に、昼間からこんな催しにいらしていただいて、ありがとうございます。

 豪華二部構成ということで、前半は“生解説”ということなんですが(笑)、生解説という言い方がものすごいリアルだと思ったんですけど……。一応、1冊の本として書いたものを、もう一度解説するというのもある意味ではとても不思議なことで。基本的には、「本を読んでいただければ」っていうこともあるんですけど、まあ本からは音が聴こえてこないので、本の中で言及したCDを何枚か聴けるのが今日の良いところだと思っていただければと。

 で、この本は『テクノ/ロジカル/音楽論』というタイトルなんですが、出てから2ヶ月くらいでしょうか、僕もしばらくは見ていなくて、昨日あらためて見たんです。それで、「なるほど」って思ったりしたんですけど(笑)。そういう話をしたいなと思っています。

 さて、後半の二部では『サウンド&レコーディング・マガジン』(通称サンレコ)という月刊誌の編集長の國崎晋さんと対談をするわけなんですが、もともとこの本に収められた論考は、サンレコに3年くらい毎月連載をさせていただいて、それをまとめたものなんですね(注:連載時のタイトルは“テクノロジカル・サウンドスケープ”で、2002年9月号から2005年4月号まで連載された)。だから書き始めたのは3年以上前の出来事で、毎月だいたい原稿用紙にして10枚くらいをずーっとやってきて、それが3年続いて本にさせていただいた、ということです。だから、自分にとってはある意味では結構昔のことではあるんですね。

 当時自分が何を考えていたのかとか、そういうこともありますし、毎月毎月ずいぶん締め切り的に厳しいことがありまして(笑)。まあその辺はまた國崎さんとの話でも出てくるとは思うんですけど、苦しい締め切りを無理矢理クリアしながらやってきたっていう部分があるんですね。それで本にするときにまとめて読み返してみて、初めて自分が何を書いていたのか、何を考えていたのかが分かるという部分があったので、今日はそういう話もちょっとできると良いなって思っています。


■思考の出発点としての聴取

 多分今日いらっしゃっている方は、少なくとも半分くらいはこの本を読まれていると思います。それで、こういう本を書くに当たって、あらかじめ申し上げておきたいことというのがあるんですね。と言うのは、僕自身はここで扱われているような音楽、あるいは電子音楽といったものの、いわゆる専門家とか研究者というものではない、ということなんです。僕は、自分なりの興味を持っていろんなことを調べたり、それについて考えて、考えたことを書いたりしていますが、基本的には皆さんと同じような音楽ファン、音楽を聴く人に過ぎないんですね。

 専門的に何か教育を受けているわけではないですし、アカデミックな意味で音楽なり電子音楽なり、あるいはテクノロジーと音楽の関係なりを日々研究することを自分に課しているわけでもない。ですから、ある種学者的にこういった問題についてアプローチして、書かれた本ではなないわけです。まあ、それは読めば分かることなんですけど(笑)。そういうものでは全くなくて、もっと個人的な興味みたいな部分で始まり、ふと気付いたら1冊の本になってしまっていた。そんな本じゃないかなって思います。では、アカデミックな研究といったものと、この本はどこが違うのか? 実はこれは『テクノ/ロジカル/音楽論』に限らないんですけど、僕自身の考え方の出発点の違いだと思っています。

 例えばミュージシャンなりアーティストが音楽なり音を使って何かをするっていうことは、もちろんすごく無意識の行動の部分もありますけど、無意識の先の部分に、自分なりに音を作っていく上での方法や考えがやはりあると思います。それで彼らは、どんどん手法を理論化していく、手法をある種の思考へと変換して、こうこうこういうことで私は音楽をやっている、と。あるいは、こう考えたら、こういう音楽が出来上がるのではないだろうか、と。そういったプロセスを経ていろんな音楽が出来上がっていくわけです。

 そしてそのプロセスを逆さまにして見ると、僕がある種の電子音楽や変わった音楽を聴いたときに、「これはどうしてこういうことになっているんだろう?」と考えるわけです。僕なりの考え方で、「これはこういう風に聞こえてこうなっているということは、こういうことなんじゃないかな?」って推測して、それについて考えていく……。そういう作業をするわけですが、そこですごく重要なことは、最終的には出来上がった音が自分にとって面白かったり意味があったり、刺激的だったり、というようなことであるかどうかが基本的にはすべてである、ということなんですね。

 つまり、出来上がった音を僕が聴くことにおいて、「これはやっぱりすごい面白い」と思えるかどうかが、とても重要なことで出発点である。だから、例えば音を聴いて全然面白くないのに、説明を聞いたらなかなか面白かったとか、あるアーティストが“こうこうこうするとすごい音楽ができるんです”って書いているのを読んだりして期待して聴いてみると「えー何これ?」っていうようなものでは、意味が無いと思うわけです。

 もちろんコンセプトっていうのはとっても重要だと一方では思っていますけれども、もう一方では、それによって出来上がった音が少なくとも僕自身にとって聴く意味があったのでない限りは、どれだけそれ以前の部分がちゃんとしてても、あるいは理論の部分だけを取り出して面白いものであったとしても意味が無いわけです。だから、僕が音について何か考えるっていうときには、基本的には具体的な音との遭遇があり、その音によって自分が理論なりなんなりを超えた部分で、突き動かされる、興奮させられる。そういう実体験がまずはあって、その体験を「じゃあいったいどうしてこれは自分にとって刺激的なものであり得たのか」と考えていくわけで、その過程で例えば『テクノ/ロジカル/音楽論』のような本が出来上がっていくわけです。

 理論なり方法っていうのは、とても重要ではあるんですけど、それだけでも駄目で、やっぱり出来上がった音が面白いのがすべて。そこから始まっているということが、いわゆる研究者とか理論家みたいな人とは、出発点で違っているんじゃないかなって思っているわけです。


■電子音楽の音楽史への回収

 ということで、何をしゃべるか全然考えていなかったわけですが、しゃべり始めると永遠にしゃべってしまうので(笑)、せっかくなので音を聴きたいと思います。

 この本の中では、実は最初と最後にちょっとずつ出てくるだけだけど、なぜか表紙には書いてある(笑)、カールハインツ・シュトックハウゼンという人がいますが、この人はある1つの系列の電子音楽の始祖と言って良い人ですね。このCD『Elektronische Musik 1952-1960』は、聴いたことがある人も多いと思いますが、彼の初期の電子音楽作品が入っているものです。では、「習作I」という曲をお聴かせしたいと思います。

  • カールハインツ・シュトックハウゼン「習作I」

 1953年に作られた、シュトックハウゼンの「習作I」という曲でした。この辺りの曲は、電子音楽の1つの始まりの時期のものですね。

 シュトックハウゼンに限らず、電子音楽と呼ばれているものが何で生まれてきたのかについてはいろんな理由があるとは思うんですが、手法的な部分での、それ以前までの音楽の行き詰まりと言うとちょっと極端ですが、ある種の壁みたいなものを打破する方法論として、こういった音楽が出てきたとは言えると思います。

 それ以前の音楽というのは、基本的には生の楽器で弾かれるようになっていて、その楽器のために楽譜とかがあって、それでリアライズするっていうことですね。だから、既存の楽器では出せない音を求めたときに、その音を発する方法論そのものを創出せざるを得なかった。それがエレクトロニクスだったということで、電子音楽と呼ばれるわけなんですけれども。

 基本的に電子音楽と呼ばれるものが生まれるまでの音楽では、いわゆる楽器は人間の身体の延長なんですね。歴史的に見れば、もともとは楽器なんかも何も無い状態の中で、声とかを使っていたのが、木をたたくような感じになっていって、それがだんだん楽器っぽくなっていくっていうプロセスがあって。基本的には、身体的なものの延長線上の中で、演奏が行われているわけです。それを、音楽っていう1つの形式がすくいとっていったっていう部分があるんですけど、電子音楽は身体的なものとは1回切れてしまっているんですね。

 身体の延長線上のものではないものを求めたがゆえに、当時の電子技術というか、電気工学というか、そういったものを使って音を出す。それは身体の延長としての楽器が出すような音とは、全く違う音だということがあって、そこに1つの可能性を見いだしたわけです。ただそれは、何かが根本的に変わるというものでもなかった。シュトックハウゼンなりの当時の試みとしては、まあ今までは一応パレットがあって、その中の絵の具からしか選べなかったんだけど、とりあえずもう1個パレットを用意することはできないか、というような程度の発想だったと思うんですね。

 で、これは本の中にも書きましたけど、シュトックハウゼンの最初の時期はこういう風に電子的なものを使った音楽を幾つか作るんですけど、その後、まずそれを従来の器楽的なものと接続する試みをします。そして、それがだんだん既存の楽器を使った音楽、つまりは電子音楽が登場する以前に音楽と呼ばれていたものに回収されていくというプロセスがあったわけです。これにより、もしかしたら既存の音楽が豊かになったと言うこともできるかもしれませんが、音楽という大きな集合に電子音楽と呼ばれるようなものが回収されていくというプロセスがあった、と。

 そして、僕が『テクノ/ロジカル/音楽論』で提出した1つのフィクションというか、1つの視点というのは、そういうものではない音楽、つまりは既存の音楽とは全く違う音楽……もしかしたら、それ以前と同じ意味では音楽とは呼べないようなものとしての音楽の可能性というものが、電子音楽の誕生の中にはあったのかもしれない。だけど、一見するとそのような事態は起きずに、ずーっと時間が過ぎていった。そういう視点なんですね。


■不断に胚胎される電子音楽の可能性

 1950年代の電子音楽の初期にはアンリ・プスールという、いろんな意味で面白い人がいますが、1954年に作られた「Scambi」という曲をかけてみたいと思います。

  • アンリ・プスール「Scambi」

 紹介するときに曲って言いましたが、あんまり曲じゃないですね(笑)。曲と言うよりは音っていう感じなんですけど……。そういう意味では、電子音楽っていう言い方をしていますが、むしろ電子ノイズって言った方がしっくりくるような感じの音ですね。

 もちろん、それ以前の“楽器を使った音楽”でも、こういった不定形な、アモルフさ、ランダムさ、ノイジーさみたいなもの……ある種の複雑さを追求してきたプロセスはあるわけなんですが、ここで聴かれるような意味での複雑さ、アモルフさっていうのは、それ以前のいわゆるクラシカルな音楽の流れの中にあるような複雑さとは1回切れていると思います。では、何でそういうことになっているかと言うと、それは機械というかエレクトロニクスが介在しているからです。新しい音、聴いたことが無い音、それ以前の楽器では出せない音を出すために、何らかの電子的な方法を導入して、それで音が鳴ってくるわけなんですね。

 基本的にこの辺りの電子音楽の実験のころは、「こういう音を出す」という目的があって、“こうこうこうでこうなったからこういう音が出ました”っていうプロセスよりも、いろんな試みの中で、エレクトロニクスがこんな音を出しちゃった、こういう音が出てきてしまった。じゃあ、それをどうするかっていうプロセスなんですね。音楽というものが、最初は身体でああだこうだやっていたのが、一応楽器が出てきて、譜面に記譜するっていう方法論が整っていく部分で、そこから音楽をいかに高めるか、いかに複雑にするか、いかにそれ以前より内容的に濃厚なものにしていくかっていう流れがあったときに、そのような操作性の追求みたいなことの延長線上にあるものとは、電子音楽は1回切れてしまっている。もちろん、そういうような流れや欲望が電子音楽を生み出したことは間違いないのですが、生み出されたときには、それ以前の音楽の欲望、音楽を作り上げるための欲望とは1回切れちゃったということがあると思うんですね。

 だけど、切れちゃったことの方向性は、そんなに突き詰められていくことはなかった。むしろそれ以前の、われわれが普通に知っている音楽というものへ回収されていくわけです。つまりは普通の音楽と、新しい音楽や、新しい音楽を作るための方法論をいかに組み合わせていくかという方に、作曲家や音楽家たちは腐心していくことになったわけです。そして、それによって見失われたものがあったんじゃないかなっていうのが、この本で僕が書いたことの視点の1つですね。そのときに見失われたというか、忘れられたものがあったんだけど、それがある種の可能性としてあって……その可能性にどれくらい意味があるのかは分からないんですけど、その後の歴史の中で折にふれて露出してくる。そういった試みが何かの拍子に出てきてしまう。“出てくる”というのは、歴史の必然と言うよりは、そのときどきのいろんな名前を持った音楽家、作曲家のある種の試みの中からふと出てきてしまうものではあるんですけどね。

 まあそういった形で、言ってみれば既存の音楽ならざるものとしての電子音楽というものの可能性が、ずっと音楽の歴史の中で胚胎している。その中で、ときどき特異点のようなものが露出してくる。そういったことがあったんじゃないか。つまりは、こういったタイプの音は、実はいろんな歴史の中で不断に生まれていたし、今でも生まれている。だけど、なかなかそういうものはたくさんの人に伝える機会が無いわけですね。


■書くことと考えること

 もちろん音楽家はさまざまですから、例えば一方である種の普通の音楽的なものを作っていた人が電子音楽的な作品を残してしまうこともありますし、全然だれにも顧みられていないんだけど、そういう音楽だけを作ったっていう音楽家も歴史上には何人もいたはずなんですね。そして、その音というのはだれかには聴かれているわけです。あるいは記録も残ってはいるのですが、もっと大きな音楽というものの発展と変化の歴史の中では、非常にマイナーなものでしかないので、なかなか聴かれることがない。大文字の歴史から見れば、ほとんどなかったことと同じみたいになっている。

 そういう中で、僕がこの本の中でやろうと思っていたことの1つは……まあ、この本に限らず僕にとっては音楽という分野の中でかなり主要な目的の1つですけれども、たくさんの人には知られていないかもしれないけれど、非常に興味深い音を作っている人がここにいますよ、いましたよということ。多分知らない人の方が多いかもしれませんが、この人は知られるに足る人です。そういうことを、やっていきたい。歴史の中で埋没していた固有名詞を幾つか拾い上げて、こんなに面白かったんですよ、ということを素朴にやりたいっていうのが連載のときには最初あったんですね。

 そしてそういう1人1人の試みというものを、文章を書くという形で他者に紹介するために聴き直してみると、いろんなことを考える。その考えて書いていく過程の中で、だんだんある種の理念というものが出来上がっていった。さっきから僕がお話ししているのは、こういった過程の結果として、自分自身がそういう考え方を発見したということなわけです。ですから、最初から“音楽ならざるものとしての電子音楽うんぬん”みたいなものを措定して、それを証明するためにいろんなデータを出していったわけではないんですね。僕の場合、リアルタイムで書いているときには何を自分が書こうとしているのか、実はよく分かっていないということが非常に多いわけです。これは、何もこの本に限ったことではないんですけど。

 頭の中に主張したいことや、“こういうことを皆さんに知らしめたい”というような目的があって、その目的に向かって証明していくという書き方を僕はほとんどできなくて。もちろん出発点はあるわけですが、たいていそれはある種の具体的な聴取体験なんですね。で、何となく引っかかってることと言うか、考えていることは漠然とはあるんですけど、自分自身でも何に引っかかっているのかが実はそんなによく分かっていないまま、書いていく。その“書きながら考えて”、“考えながら書いて”という過程の中で、自分自身が考えを見つけ出していく。そういうプロセスで、やっていったっていう感じなんですね。なので、連載時のプロセスとしては1人また1人と、自分自身が紹介したい、書いてみたい人を挙げていく感じで、『テクノ/ロジカル/音楽論』の最初の方の章では何人かの人が順番に出てくるわけです。


■知られざる電子音楽家とグリッチの間

 さて、プスールは1972年にケルンのスタジオに再び招かれ、「Paraboliques」という8曲から成る組曲を作ります。ちなみにこのスタジオは、シュトックハウゼンが先ほどの電子音楽を作ったスタジオでもあります。だいたい1曲が30分くらいの長いものなのですが、でもそれは当時はちゃんと発表されないんですね。では何が発表されたかと言うと、その8曲を素材にしていろんな人が使ってミックスをして曲を作るっていう発想があって、最初のころはミックスされた曲しか聴けなかったんですね。プスールの電子音楽集の中には、彼自身がやったミックスが入っています。

 それが数年前に、この本の出発点でもあるサブ・ローザというベルギーのレーベルが、元曲を全部発掘しまして、1枚のCDに2曲ずつ計4枚のCDで豪華ボックスセットを……まあ豪華でもないんですけど(笑)、ボックスセットって言おうと思うと、思わず豪華という言葉が付いてしまいますが(笑)、リリースしています(『8 Etudes Paraboliques』)。さらに、このリリース記念にいろんな人が「Paraboliques」をミックスするというライブがありまして、メインのロバート・ハンプソンやフィリップ・ジェック、そしてこの本を僕が最終的に捧げることにしたオヴァルことマーカス・ポップなんかが参加しています。このライブもまたCDになってるんですけど(『4 PARABOLIC MIXES』)、ちょっとだけ聴きましょうか。どうしましょう、どうせだからミックスにしましょうか? いや、ミックスにしない方が良いか……。では、『8 Etudes Paraboliques』から1曲。

  • アンリ・プスール 「ビバ・キューバ」

 すごい盛り上がっている感じがありますが、これは「ビバ・キューバ」っていう曲ですね。何が「ビバ・キューバ」なんだろうって感じもしますが(笑)、微妙にエスノが入っている感じがあります。

 この後、アンリ・プスールはミシェル・ビュトールというフランス人の小説家、まあヌーボーロマンの小説家の1人ですけれども、彼といろんなコラボレーションをすることになります。ビュトールがテクストを書いて、プスールが音楽をやった作品が幾つかあるんですけれど、3枚組のCDで、2000年に作った超大作があります。これはかなりエスノ・エレクトロ・アコースティックな感じになっていて、すごい面白い音楽です。

 アンリ・プスールという人は作品がいっぱいありますし、いろんなタイプの作品を作っていて、実は電子音楽は彼の作品の中では一部分を占めるに過ぎないわけです。でも、彼の電子音楽は聴いてみると非常に面白くて、この『8 Etudes Paraboliques』も、今は1曲の一部を聴いただけですけれども、どれもかなりぶっ飛んだ電子音楽になっています。ですから出す意味が、非常にあったなという気がします。

 で、アンリ・プスールは比較的有名です。比較的と言うか、全然ばっちり有名です(笑)。現代音楽の歴史の本をひもとけば、結構普通に名前が出てくる人ですね。でも、出てこない人も、この本では何人か紹介しています。その最たるものの1人が、ディック・ラージメイカーズですね。

 彼はオランダ人なんですが、『The Complete Tape Music of Dick Raaijamkers』というCD3枚組のボックスセットで主だった作品が全部聴けます。本の中にも書きましたが、この人は非常に変わった作曲家です。僕も、この人のことを知ってCDセットを聴いて、「本当にすごい!」って思ったんですけれど、その後にいろんな事実が明らかになっていくとともに、本当に底知れない、一種奇人的な部分を持った、だが1本筋の通った部分を持った作曲家、音楽家だなっていう気がしています。

 実はこの人は、ノイズ・ミュージックの世界ではときに名前が出てくる人でした。その理由というのは、こういうCDが出る前に、1枚だけディック・ラージメイカーズのLPが出ていまして。まあ、1曲だけとかだと別のレコードにも入っていたりしますが、そのLPに入っている曲が極めてすごいということで知られていたわけです。僕も当時それを聴いて、すごいというか、わけが分からないなって思って、ラージメイカーズに興味を持ちました。そういう人が世界中にちょっとずついて(笑)、ディック・ラージメイカーズという名前が伝説的な響きを帯びていたわけです。そしてこのCDボックスで、ラージメイカーズはやっぱりすごい人だってことが明らかになっていったわけです。

 では、僕が驚いた「Canon」という5曲から成る曲を聴いてみましょう。

  • ディック・ラージメイカーズ 「Canon1」

 今のは「Canon1」でしたが、「Canon3」も聴いてみましょう。

  • ディック・ラージメイカーズ 「Canon3」

 まあこんな調子で、「Canon」っていう曲は続いていく組曲です。作曲されたのが1964年から67年くらいにかけてですね。1964年っていうのは僕が生まれた年なんですけれど、自分の生まれた年に既にこんなわけの分からない音楽があったという驚きがあります。これは、現在言うところのグリッチの先駆と言いますか……。

 僕が最初にこの曲の入っているLPを聴いたのは1990年代の前半だと思いますが、LPですから針音がしますからそのノイズと作品が区別が付かないくらいでした(笑)。当時はグリッチという言葉もありませんし、何なのかよく分からないっていう……。「カサカサ言ってるだけじゃん」っていうような曲なのに、タイトルがカノンというのが、本当にけげんでした(笑)。頭の中がクエスチョン・マークでいっぱいになりまして、それが僕にとっては音楽を聴くときに喜びを感じることの1つなんですけれど、すごく驚きました。


■知られざる電子音楽家とノイズの間

 この人は、こういうことばっかりやってるわけですね。ある種人を食ったと言いますか、すごくシリアスな部分と、頓狂というか変わった部分が同居しているのがラージメイカーズの音楽の特長ですね。

 ではもう1曲同じCDボックスから、「Chairman Mao Is Our Guide」……“毛議長はわれわれのガイド”という1970年の曲です。これは毛沢東のことですね。まあ、曲の方は別に、毛沢東とはほぼ関係が無いわけですが。聴いてみましょう。

  • ディック・ラージメイカーズ 「Chairman Mao Is Our Guide」

 これは8分間ある曲なんですが、今は2分30秒くらい経過しました。まあ、この状態がずっと続くという感じです(笑)。タイトルからして、ある種の政治的な含意、アイロニーみたいなものを感じなくもないですね。でもそれよりも、これを曲として発表してしまうという、まあ早すぎたと言いますか、全然早すぎてもいない、だれも追いついていないと言いますか……(笑)。そういうことが、非常にただ者じゃないなと思わせます。

 先ほどグリッチという言葉を出しましたが、いわゆるグリッチと呼ばれる音楽が出てきたときに、僕は接触不良という言葉を使って説明をしていました。電子回路が接触不良を起こすと“ビビー”というような音がするわけですが、その音をそのまま曲にしている感じの音楽のことを接触不良音楽みたいに言ったりしていたわけです。まあ、言ってみればそれがグリッチだと思うんですけど、ラージメイカーズはそういったものの先駆者と言ってよいと思います。新たなエレクトロニクスなりを使って面白い音楽を作るというよりも、そのテクノロジーなり機械そのものが立てるきしみ、うなり、間違って出てしまった音を、そのまま作品にしていくという考え方。そういう考え方でいろんな人たちがいろんな音楽を作り始めるずっと前に、作品を作っていたのがディック・ラージメイカーズですね。

 で、本当にグリッチそのものと言ってもよいような曲があったりするんですけれど、これがまた同じCDボックスに入っている「Plumes」っていう曲ですね。

  • ディック・ラージメイカーズ 「Plumes」

 1967年にこんなことをやっていた人がいた、ということなんですが(笑)。まさにグリッチそのものと言ってもよい音なんですけど、グリッチという言葉が生まれる30年くらい前に、こういうことがあったとうことです。

 ディック・ラージメイカーズという人はオランダ人なんですけど、本当に知られていません。まあ、知られていないと言いながらも一応は3枚組のCDボックスが出ているので、知られているところでは知られているわけですけど(笑)。でも既成の音楽史、あるいは既成の電子音楽史と言ってもよいですけれど、そういう本でもこの人の名前が出てくることは極めてまれで、見過ごされているというか、あまり重視されていない人なんです。でも、聴いてみると本当にすごいわけですね。

 そんなラージメイカーズですが、やっぱりほかの音楽家に影響を与えているところもあります。オランダでは1980年代くらいから、電子的な回路を使ってインプロビゼーションをしたり合奏したりする、ノイズ・エクスペリメンタルの1つの潮流が生まれてきました。その中でTHU20やカポテムジークなんかが出てきて、今でもそのメンバーはアクティブに活動しているんですけれど、THU20なんかはディック・ラージメイカーズと共演と言うか、直接的に関係があったりします。ですから、テクノロジーというものに対するアプローチ、あるいは何らかのテクノロジー、エレクトロニクスを使って音を出すことに対しての考え方を、ダッチ・ノイズの人たちはディック・ラージメイカーズの試みから、直接的、間接的に学んだ部分があるんじゃないかなって思います。

 でもこれはオランダだけの話ではなくて、だいたい1980年代〜1990年代の始めくらいまでに、そういうような試みがいっぱい出てくるんですね。ドイツなんかでは、P16D4というグループや、SBOTHIというグループが、エレクトロニクスを使って、非常に実験的な音楽をやるようになる。そのずっとさかのぼった部分でのフロンティアとして、ディック・ラージメイカーズという人がいることを言いたかった部分があるんですね。

 あとこの人は別名を持っていまして、キッド・バルタン名義でファニーなかわいい電子音楽、普通にコマーシャルで使えそうな音楽も作っています。で、割と最近のことですが、レイモンド・スコットの再発で有名なバスタっていうレーベルから、オランダのポピュラーなタイプの電子音楽の知られざる作品を集めた豪華ボックスセットが出ていまして、これは本当に豪華なんですけれど(笑)、その中にはキッド・バルタンの曲も入っています。これが、すごくポップなので驚いたんですけれどね。このCDボックスは普通に売っているものですが、ボックスセットなのでおいそれとは買えないというのはあるかと思います。でも、ほかの作曲家の作品も非常に面白いので、1人も知っている名前がなくても、聴く価値はあると思います。


■テクノ以前/テクノ以後

 ラージメイカーズみたいな人がほかにもいろいろいますよっていうことで、もう1人名前を挙げておきたいと思います。

 もう1人というのはスウェーデン人で、ルネ・リンドブラッドです。この人もノイズの世界で最初に注目された人で、ノイズ・エクスペリメンタルと言ってよいような音楽をやってる人たちが主宰しているポーガスというレーベルから、幻の作品が幾つかCDにコンパイルされています。この人は、時期的にいえば電子音楽のすごく初期の1950年代くらいから自分なりの電子音楽を作っていまして。シュトックハウゼンやアンリ・プスールと同じ時期からそういうことをやっていました。でも、人知れずやっていた。あるいは、やったんだけどすごくみんなに文句を言われた(笑)。そういった感じで、あまりスウェーデンという国の外では知られることのなかった人です。ただし、生涯にわたって膨大な曲……しかもほとんどは電子音楽を作曲していまして、それが今どんどん発掘されているんですね。

 今日持ってきたのはルネ・リンドブラッドの作品集ではなくて、スウェーデンの電子音楽を集めたコンピレーションです。何でこれを持ってきたかと言いますと、リンドブラッドの作曲作品には通し番号が付いているんですけれど、そのすごく初期のものがこの中には入っているんですね。「オプティカル1番」という曲なんですけれど、それをお聴かせします。

  • ルネ・リンドブラッド 「オプティカル1番」

 これは作曲が1960年ですね。オプティカルというのは光学的という意味ですが、実際にこの人は映画のフィルムを音作りに利用したりと、もともとは作曲の教育を受けた音楽畑の人ではない部分もあり、どちらかと言えば美術的な発想があったりします。その結果の音が、ある意味でラージメイカーズがやっていることと近似している部分があるんですけれど、考え方としてはちょっと違うところから出てきている部分もある。

 で、この人の作品集は2枚組のCDが3種類出ていまして、だいたい30曲くらい聴くことができます。どの曲も非常に面白くて、今の曲のようにドローン的なものの上にノイズ的なものが乗っているという形の作品が多いんですけれど、ある持続、デュレーションの中で音が少しずつ変化していくわけですね。そして彼は、スウェーデンの裏電子音楽の歴史という部分では、いろんな人に影響を与えています。

 これも美術の方で活躍している人ですが、カール・マイケル・フォン・ハウスウォルフという人がいます。彼はいろんなレーベルからCDを出していますし、日本にも何回か来たことがあるので、名前を聞いたことのある方もいらっしゃるかとは思います。ハウスウォルフはスウェーデンの実験音楽界の大物の1人で、ルネ・リンドブラッドの再評価に貢献した人ですね。ポーガスの一連のルネ・リンドブラッド作品集のコンパイルにもかかわっています。

 この人も作品としてはいろんな形で出しているんですが、ルネ・リンドブラッドの影響は非常に強く感じられます。今日は彼の最新の作品を持ってきましたが、これはシカゴに新しくできたアートスペース、ランポが初めて出したCDです。実験的なライブなどをやるスペースで、アメリカにしては珍しく非営利的な形でそういうことをやっていく場所らしく、HEADZとも深い関係があるスリルジョッキーのオーナーのベティーナ・リチャーズも参加したりしているみたいです。そのランポがカール・マイケル・フォン・ハウスウォルフをスウェーデンから招きまして、インスタレーション作品を展示し、CDも出したということです。「There are no clouds Flying under the...」という曲で、だいたいハウスウォルフの作品はタイトルが長いんですが(笑)。曲も長いので、頭の方だけ聞いてみましょう。

  • カール・マイケル・フォン・ハウスウォルフ
    「There are no clouds Flying under the...」

 1曲が40分くらいあるんですけれど、この調子でずっと続いていきます。彼の作品は電子的なドローンが主体になっている方向性と、今の曲みたいなある種のリズム構造、反復がちゃんとあるもの、その2つの方向性があります。そして、その2つがミックスされている部分もあったりします。先ほどのラージメイカーズとかリンドブラッドなどを電子音響やグリッチの先駆と言いましたが、あの時代のものと現代のそういうことやっている人の違いは、思うにテクノというものの介在だと思っています。

 『テクノイズ・マテリアリズム』の第一章でも書いたことですが、テクノと言われている音楽の前段階としてミニマル・ミュージックがあって、ミニマリズムからテクノへの流れというものが、今の曲のような分かりやすいミニマリズムというか、反復の構造というものをやることを許したと考えられます。つまりテクノ以前、あるいはテクノの前哨戦であったミニマル・ミュージック以前の試みは、こういった反復性には向かわなかったわけです。むしろもっと不定形な、反ミニマリズム的な方向性か、非反復的な方向性が強かった。しかし、仮に僕が電子音響と総称しているような音楽をやっているような人たちは、テクノという非常に大きな考え方の導入によって、そういう要素が以前よりも強く出てきている。ハウスウォルフもテクノ的なレーベルから作品を出していたこともありますし、以前の作曲家と比べれば、テクノというものの存在が、やっぱり大きな違いとしてあるような気がしています。


■実際に聴くということ

 さて、結構時間がなくなってきたのでまとめに入ろうと思います。ハウスウォルフはいろんな作品を作っていて、ルネ・リンドブラッドの再評価にも強い貢献をしています。そして、彼はリンドブラッド以外の電子音楽のパイオニアにもオマージュを捧げている部分がありまして、電子音楽初期の最大の名作の1つであるシュトックハウゼンの「少年の歌」を現代の電子音響アーティストたちがリミックスというか、オマージュを捧げて作品を作ったというコンピレーションがあって、それにも参加しています。

 「少年の歌」は、シュトックハウゼンが「習作」や「コンタクテ」といった電子音楽の作品の後に、ボーイ・ソプラノと電子音楽をつなぎ合わせて作った有名な曲ですね。というわけで、まずは「少年の歌」をちょっとだけ聴きましょう(『Elektronishe Misik 1952-1960』)。

  • カールハインツ・シュトックハウゼン 「少年の歌」

 この「少年の歌」を、いろんな人がリミックスしたものがポルトガルのSIRRというレーベルから出ていて(『UNTITLED SONGS』)、2枚組でいろんな人が参加しています。で、一番最後にハウスウォルフによる少年の歌が入っているわけですね。

  • カール・マイケル・フォン・ハウスウォルフ 「少年の歌」

 どこが「少年の歌」かよくわからない感じですが(笑)、10分以上ある曲です。このコンピレーションのジャケットには“「少年の歌」の作曲以後49周年記念CD”と書いてありますが、なぜ50年まで待てなかったのかは、あらためて考えると謎でもあります(笑)。

 というわけで、ちょうどシュトックハウゼンの曲に戻ってきたわけですが、予定時間の90分というのは結構短いですね。あっという間という感じです。実はイアニス・クセナキスとか刀根康尚さんの音も紹介したかったのですが、また別の機会にということで……。

 最初にも言いましたが、この『テクノ/ロジカル/音楽論』という本は、言葉で書かれたものとしてまとめられ、読んでくださる方がいて、そういう意味では僕の中で1つの重要な仕事の流れなのですが、どうしても本からは音が聴こえてこない。いや、聴こえてくるかもしれないんですけど、やはり読者の方が勝手に頭の中で想像しているだけということがあります。音楽にかかわるジャーナリズムであれ批評であれ、そういうことをやっている人間の1つのジレンマは、結局は“聴く”という非常に具体的な体験に結びつかないと、単なる観念的なものになってしまう、ということです。そして、そうなってしまうことが非常に多いわけです。特に、あまり聴く機会がないようなものについて書いている場合は、どうしてもそうなってしまいがちです。

 僕はそういう部分に関しては、実際に音を聴いてもらうことの方を、優先したいと思っている部分があります。それで、かつてはこのような形でお聴かせしたい音楽をかけながらお話をするというイベント“UNKNOWNMIX”をかなり頻繁に行っていましたし、今ずっとやっていること、例えばCDを出したりライブを企画したりということも、全部その延長線上にあると思っているんです。

 学校では今でも音を聴かせながらしゃべるっていう授業ばっかりやってるんですが(笑)、そうじゃない機会でこういうことをやったのは実はすごく久しぶりで、何となく緊張した部分もあるんですけど、やはりこういう音楽は聴いてもらってナンボだっていう、非常に素朴な喜びがありました。ラージメイカーズをかけて、ずっとホワイト・ノイズみたいな音がずっと流れている状態が3分くらいたつと、やっぱり皆さんの“ハテナ感”もそこはかとなく空気を伝わってくるところがありまして(笑)。それがやっぱり、僕自身がその曲を最初に聴いたときに感じたものですから、ほかの人に共有されていくっていうのは、非常にうれしいこと、面白いことなんですね(笑)。すごく素朴な感想ですが。

 なので、今日はこういう機会を与えてもらってすごく良かったと思います。

 後半は國崎晋さんをお迎えして、『テクノ/ロジカル/音楽論』秘話みたいな話をするらしいです(笑)。では、ここでちょっと休憩ということで。とりあえず、ありがとうございました。

 
■佐々木敦
http://www.faderbyheadz.com/a-Site/
 
 
『テクノ/ロジカル/音楽論〜シュトックハウゼンから音響派まで』
佐々木敦・著 2005年11月30日発売 2,100円(税込)
オンガクの歴史をスクラッチ&コラージュ!
佐々木敦の最新長文論考
【CONTENTS】
序章 「非=クロノロジー」としての「歴史」
第一章 「電子音楽」と「電子音響」
第二章 「音楽」vs「テクノロジー」
第三章  クセナキスの教え
第四章 「ノイズ」から「グリッチ」へ
第五章 イノヴェーション/インヴェンション
「反復」と「切断」 あとがきにかえて
関連ディスク・レビュー(56枚)
 
Copyright (c)2006 Rittor Music,Inc., an Impress Group company. All rights reserved.